【シンデレラデー】年越しで深夜0時がシンデレラのように気になる日

12月31日は1年最後の日として「大晦日」と呼ばれる他、「シンデレラデー」とも言われます。年越しのため、おとぎ話のシンデレラのように深夜0時が気になってしまうことからこう呼ばれるようになりました。

「シンデレラ」のあらすじは、継母とその連れ子の姉たちにいじめられていたシンデレラが、午前0時までしか効き目の無い魔法によって着飾りお城の舞踏会へ行って、王子様に見初められるものの時間切れで靴を残して帰ることとなり、後に靴を手掛かりで王子に探し出されて結婚するハッピーエンドとなるものです。

実はシンデレラ(Cinderella)の本当の名前は「エラ」で、灰で汚れた彼女を継母たちがバカにして「灰まみれのエラ/シンダーエラ」と呼んだことがその名の由来で、王子様と結婚してやっと「エラ妃」となったのです。ちなみにこの物語のことを、日本では「灰かぶり姫」や単に「灰かぶり」と呼ぶこともあります。

何れにしてもシンデレラは、お城の舞踏会には行けたものの、魔法の時間切れとなる午前0時をとても気にしていました。その同じような状況が大晦日の12月31日で、最も深夜0時が気になる日となり、シンデレラのお話に被せて「シンデレラデー」と呼ばれるようになりました。

シンデレラ型の物語は、古来より世界中に残されています。その内最も古い記録のひとつにギリシャの歴史家ストラボン(前63年頃-23年頃)の書き残したものがあります。

この話の場所はエジプト、主人公は美しい女奴隷のロードピス、ハッピーエンドは主人から贈られたサンダルによって、ファラオ(エジプトの王)と結婚するというものです。但し、このお話しの中には時間切れに関する要素は含まれてはいませんでした。

中国では楊貴妃(719-756年)をモデルにしたとされる「掃灰娘」や唐(618-907年)の時代の民話に基づいた「葉限」などの類話があり、日本でも10世紀(901-1000年)頃に、「落窪(おちくぼ)物語」という似たような話があります。

イタリアのジャンバティスタ・バジーレ(1575?-1632年)は「ペンタメローネ(五日物語、Pentamerone)」の中の「チェネレントラ」、フランスのシャルル・ペロー(1628-1703年)は「サンドリヨン」、ドイツのグリム兄弟(長兄:1785-1863年・次兄:1786-1859年)は「アシェンプテル」として、シンデレラ物語を書いています。

シンデレラが日本に紹介されたのは、明治19年(1886年)の「新貞羅」やその翌年の「シンデレラ奇縁」があります。明治33年(1900年)には、小説家の坪内逍遥が本名(雄蔵)で高等小学校の教科書に、「おしん物語」として書いています。

12月31日の出来事としては、ヴァンダル族(古代ローマ領外の蛮族)がガリア侵入(406年)、イギリス東インド会社の設立(1600年)、元禄地震で南関東に被害(1703年→元禄16年11月23日)、寛永寺から初めての除夜の鐘中継放送(1927年)、テレビアニメ『鉄腕アトム』の放送終了(1966年)などがあります。

ちなみに12月31日は「大晦日」・「シンデレラデー」の他に、「そばの日」・「寅彦忌」・「一碧楼忌」・「著作権法上の著作権の保護期間の最終日」・「聖シルウェステルの日(カトリック教会)」などでもあります。

【東京タワー完成の日】この日、東京のシンボルが竣工した!

12月23日は「国民の祝日」の「天皇誕生日(平成)」である他、「東京タワー完成の日」でもあります。昭和33年(1958年)12月23日、東京のシンボルで観光名所でもある「東京タワー」が竣工しました。

「東京タワー」の設計者は、「耐震構造の父」や「塔博士」と称される、建築構造技術者・建築構造学者・一級建築士の内藤多仲(たちゅう)です。明治19年(1886年)6月12日、山梨県中巨摩郡榊村(現南アルプス市曲輪田)に誕生しました。

大正3年(1914年)から昭和元年(1926年)まで内藤が構造設計したものには、芝浦製作所鋳物・大阪高島屋百貨店長堀店・大阪商船神戸支店・日本興業銀行・歌舞伎座・実業之日本社ビル・NHK愛宕山放送局鉄塔・東京電力千住火力発電所・早稲田大学大隈記念講堂などです。

昭和以降も、東京地下鉄道上野駅・明治生命館・大丸百貨店・大阪放送会館本館・旧東京厚生年金病院・世界平和記念聖堂・根津美術館などの構造設計を行ない、名古屋テレビ塔・二代目通天閣・別府タワー・さっぽろテレビ塔などの設計にも関わりました。

昭和32年(1957年)5月8日、「東京タワー」の管理会社として「日本電波塔株式会社」が設立されます。6月29日には地鎮祭が執り行われて着工となり、7月15日にその設計図の作成が終了し、9月21日には塔脚第一柱が設置されて定礎式が挙行されたのです。

昭和33年(1958年)10月9日、建設中の電波塔の愛称を「東京タワー」に決定されます。10月14日には高さ80mのアンテナを設置、12月7日にプレオープンとなり公開が始まり、12月23日に完工式が挙行され正式なオープンとなりました。

愛称「東京タワー」は完成直前に開かれた審査会で決定しました。8万6千票を超える応募作の内容は、1位「昭和塔」・2位「日本塔」、他に米ソの人工衛星打上競争の世情を表わした「宇宙塔」・皇太子(平成の天皇)の御成婚が近いことから「プリンス塔」などありました。

「東京タワー」は応募数の多さでは13位(223通)というものでしたが、審査会の参加者・徳川夢声(弁士・漫談家・作家・俳優)の推挙によって、竣工の当日に愛称に決定されたのです。そして、賞金10万円が抽選の末、神奈川県の小5の女子に贈られたのでした。

「東京タワー」は今でも、浅草寺・羽田空港・明治神宮・上野動物園・お台場・東京駅・都庁・東京ソラマチ・築地場外市場などと並んで、東京の観光名所となっています。平成24年(2014年)に開業した電波塔「東京スカイツリー」を凌ぎ、今でも東京のシンボルと言える存在なのです。

12月23日の出来事としては、『ニュルンベルク年代記』の発刊(1493年)、カッシーニによる土星の衛星レアの発見(1672年)、安政東海地震の発生(1854年→嘉永7年11月4日)、A級戦犯7名の絞首刑執行(1948年)などがあります。

ちなみに12月23日は「天皇誕生日(平成)」・「東京タワー完成の日」の他に、「テレホンカードの日」・「ふみの日」・「歩民(府民)の日」・「踏切りの日」・「天ぷらの日」などに設定されています。

【かぼちゃの日】冬至に煮物を食べる風習からこの日になった!

12月22日は「二十四節気」の「冬至(2017年)」である他、「かぼちゃの日」でもあります。「冬至」にカボチャの煮物を食べる風習あることから、この日(「冬至」になる日)が設定されました。

「冬至」は北半球の場合一年で最も昼が短くなる日で、太陽の力が最も弱くなるものの、その日太陽が生まれ変わると考えられていました。中国では「一陽来復(いちようらいふく)」と言って、それまでの悪かった”気”が良い方へ向かい縁起が良いとされ、一年の始りの日という考え方もあるのです。

日本では、「冬至」を”死に近い日”としてその日に厄を払うということを考えました。その厄除けとして行なわれたのが、カボチャを食べるということだったのですが、この風習はそれほど古いものではなく、明治時代になってから始められたようです。

ではなぜカボチャなのかというと、それは語呂合わせのような理由があります。

カボチャを漢字で書くと「南瓜」で、音読みすると「なんきん」となり、二つ入っている”ん”が”運”に繋がって縁起が良いと考えられたのです。また、「陰陽(いんよう)」の考え方からすれば、”陽”である夏の野菜のカボチャを、”陰”である冬に食べて、”陽”の”気”を取り入れようという意味もあります。

また、カボチャのもう一つの呼び名「唐茄子(とうなす)」から、冬至の”冬(とう)”と唐茄子の”唐(とう)”の”と”をかけているともいいます。同様に冬至には”と”のつく食べ物を食べる風習があり、その食べ物とは豆腐・唐辛子・ドジョウ・いとこ煮(小豆などを煮た煮物料理)などです。

カボチャはビタミンA・ビタミンC・ビタミンEなどのビタミン類を多く含む緑黄色野菜で、健康づくりには欠かせない食べ物です。寒い冬の時期にカボチャを食べると言うことには、健康面からの理由もあり、同様なものとして「柚子湯に入る」・「コンニャクを食べる」ということも冬至には行われるのです。

柚子湯に入ると風邪をひかないと言われており、コンニャクは「体の砂払い」と言って体内の掃除をすると言うのです。また、冬至の朝には小豆粥を食べると言う風習もあり、これは疫病にかからないという伝承と身体を温めるという効果に基づいたものです。

カボチャ以外にも「冬至の七種(ななくさ)」といって、”ん”を”運”として縁起が良いと考えられているものがあります。それは、レンコン・ニンジン・ギンナン・キンカン・カンテン・うどん(うんどん)で、カボチャばかりでなくこれらの縁起物も取り混ぜて食べると、運気も更に上がり健康面でも安心が得られるのではないでしょうか。

12月22日の出来事としては、鎌倉幕府の守護・地頭の設置を後白河天皇が認可(1185年→文治元年11月29日)、紫衣事件で後水尾天皇が明正天皇に譲位(1629年→寛永6年11月8日)、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任(1885年)などがあります。

ちなみに12月22日は「冬至(2017年)」・「かぼちゃの日」の他に、「改正民法公布記念日」・「労働組合法制定記念日」・「夫婦の日」・「地球の日」・「カレーの日」などに設定されています。

【手袋の日】そろそろ手袋が必要になる日が設定された!

11月23日は「国民の祝日」の「勤労感謝の日」である他、「手袋の日」でもあります。そろそろ手袋が必要になる季節に向けて、「日本手袋工業組合」が「勤労感謝の日」を記念日として設定しました。

「手袋の日」を制定した「日本手袋工業組合」は、昭和13年(1924年)1月8日に「香川県莫大小(メリヤス)工業組合」として設立されました。香川県は、東かがわ市を中心として、日本の手袋の9割ほども生産している、有数の手袋の産地なのです。

「日本手袋工業組合」の現在の取扱い品目は、縫ドレス手袋・UV手袋・縫作業手袋・革ドレス手袋・スキー手袋・ゴルフ手袋・オートバイ手袋・バッティング手袋・マリーン手袋・袋物小物・袋物・編ドレス・ニット製品・のびのび手袋・ソックスカバーとなっています。

歴史を遡ると、明治21年(1888年)から大阪でメリヤス手袋の縫製を行なっていた香川の人の話まで行き着きます。その人と言うのは現在の東かがわ市白鳥のお寺の副住職だった人で、なんと”駆け落ち”して大阪へ行き、そこでメリヤス手袋の製造を始めたのでした。

その製造技術が香川県白鳥村出身の棚次辰吉(たなつぐたつきち)へと伝授され、明治32年(1899年)に東かがわ市松原に工場が作られたのです。その後東かがわ市には手袋産業が集まり、国内最大の産地になっていったのです。

昭和22年(1947年)3月1日に「四国莫大小工業協同組合」の結成、3月25日に「日本メリヤス工業会」設立、昭和37年(1962年)8月25日に「日本手袋工業組合」結成と発展を続け、昭和48年(1973年)1月18~26日には東南アジア諸国に手袋企業進出のための調査団を派遣もしました。

「手袋の日」が制定されたのは昭和57年(1982年)で、その日付は手袋が必要になる時期で、休日である日ということで検討し、「国民の祝日」の「勤労感謝の日」の11月23日を選定したのでした。

平成26年(2014年)、「日本手袋工業組合」が旗振りし、「伊藤忠ファッションシステム」がサポートして、明治21年(1888年)から続く香川県東かがわ市の手袋の歴史を未来へと広げるため、「1888手袋ラボ」というプラットフォームを立ち上げ、「香川手袋」というブランドが生まれました。

11月23日の出来事としては、ポーランド大公レシェク1世の暗殺(1227年)、蝦夷国松前藩の藩主に松前高広が襲封(1648年→慶安元年10月9日)、大井憲太郎らによる大阪事件(1885年)、雑誌『ライフ』の創刊号発売(1936年)、イギリスのSFテレビドラマ『ドクター・フー』の放送開始(1963年)などがあります。

ちなみに11月23日は「勤労感謝の日」・「手袋の日」の他に、「外食の日」・「ゲームの日」・「Jリーグの日」・「いい家族の日」・「いい夫妻の日」・「いい兄さんの日」・「いいふみの日」・「カキの日」・「ワーク・ライフ・バランスの日」・「ふみの日」・「歩民(府民)の日」・「踏切りの日」・「天ぷらの日」などに設定されています。

【いいお産の日】妊婦と助産師中心の活動する語呂合わせ(1103)

11月3日は「国民の祝日」の「文化の日」である他、「いいお産の日」でもあります。妊婦と助産師が中心になって活動する「いいお産の日実行委員会」の事業で、語呂合わせ(1103)になっています。

平成6年(1994年)11月3日、優しいお産をめざす出産情報誌『REBORN』の一周年記念の「いいお産の日」イベントが行われました。ジャーナリストの河合蘭とマタニティコーディネーターのきくちさかえが『REBORN』主催のイベントとして企画したものです。

第1回イベントでは、『WHOの59カ条 お産のケア 実践ガイド』という本の翻訳をしたり、『参加型マタニティクラスbook』という著書のある、出産事情に詳しい戸田律子が11月3日を「いいお産の日」と呼ぶことを提唱し、全国15の自主グループが協力しました。

この時は、バースエデュケーター(出産準備クラスの専門家)のイギリス人シーラ・キッツィンガーが基調講演『優しいお産の環境を考える』を行ない、温かい感動が開場を包んで一体化させたのです。

第1回のテーマは「11月3日はいいお産の日」、第2回は「ようこそお産ワールドへ」と『REBORN』が主催し、第3回ではテーマを「生まれる」として、全国7ヶ所で開催されました。

平成9年(1997年)の第4回テーマは「こころとからだをはぐくむ」、この年からイベントを主催したのが「「いいお産の日」実行委員会」です。その後、第5回「こころの胎動、感じますか」、第6回「みつめたい「今」」、第7回「Love&0(ラブ)」、第8回「赤ちゃんがやってくる」(『REBORN』共催)と毎年続けられます。

平成14年(2002年)に主催者名を「「いいお産の日」プロジェクト」に変更し、翌年(2003年)9月22日に特定非営利活動法人「いいお産プロジェクト」を設立しました。そして、全国の都道府県や団体が活動に参加し、各都道府県毎に「いいお産の日」イベントは続いているのです。

活動団体には、「青森県助産師会」・「秋田県助産師会」・「名古屋市立病院助産師会」・奈良県の「はっぴぃ明日(あーす)」・「広島県助産師会」・「岡山市」及び「岡山県助産師会」・「香川県助産師会」・「徳島県助産師会」・「宮崎県看護協会」・「沖縄県助産師会」などがあります。

11月3日の出来事としては、『古事記』編纂に着手(711年→和銅4年9月18日)、『君が代』が宮中で初披露(1880年)、パナマの独立(1903年)、後の昭和天皇が立太子(1916年)、ポーランドの独立(1918年)、日本国憲法の公布(1946年)、湯川秀樹が日本人初のノーベル賞受賞(1949年)などがあります。

ちなみに11月3日は「文化の日」・「いいお産の日」の他に、「文具の日」・「レコードの日」・「みかんの日」・「サンドイッチの日」・「ハンカチーフの日」・「ゴジラの日」・「まんがの日」・「いいレザーの日」などに設定されています。

【津軽弁の日】青森県が誇りとする”なまり”の詩人が亡くなった日

10月23日は「国民の祝日」の「秋分の日(2017年)」である他、「津軽弁の日」でもあります。昭和62年(1987年)10月23日、青森県が誇りとする”なまり”の詩人・高木恭造が亡くなりました。

この高木恭造の命日にあたる10月23日には、毎年青森市文化会館で「津軽弁」をテーマとした催し物が開催されています。「津軽弁の日やるべし会(標準語で実行委員会)」が主催し、初回は昭和63年(1988年)のことでした。

催し物への出演者は、会の代表でマルチタレントの伊奈かっぺい、ローカルタレントの野津こうへい、北野岸柳(川柳作家)・田中耕一(劇団「雪の会」役者)・青山良平(青森放送パーソナリティー)・鳴海征子(青森放送元アナウンサー)・山上進(津軽三味線奏者)・大友寿郎(青森放送特別顧問)などです。

出演者に青森放送の関係者が多くなっていますが、これは伊奈氏が元々青森放送の社員であったことからの人脈でしょう。過去に出演したことのある人には故・永六輔や故・牧良助(俳優・「だびよん劇場」オーナー)があり、平成9年(1997年)にはシンガーソングライターのさだまさしも出演したことがあります。

催し物の内容は、一般公募した津軽弁に関する短歌・俳句・川柳・体験記・詩の中の優秀作品を、出演者が朗読するというものです。その模様は後日青森放送のテレビ・ラジオで放送され、カセットテープやCDとして発売もされています。

「津軽弁」は共通語と大きく異なる発音で、独特の言い回しが多く、日本語を話す人でも難解な方言です。青森県津軽地方(県西部)で話され、南部地方(青森県東半分・岩手県北部と中部・秋田県北東部の一角)の南部方言と大きく二分されます。

高木恭造は明治36年(1903年)10月12日に青森県で生まれ、青森中学・弘前高校を経て青森日報社と出版社勤務の後、昭和8年(1933年)に満州医科大学医学部を卒業しています。

満州引き揚げ後は弘前で眼科を開業しながら、詩や小説を作り、日本各地で方言詩の朗読公演を行なう活動をしていました。代表作「まるめろ」はその津軽弁による朗読はもちろん作品としても高い評価を得て、翻訳されて海外にも広まっているのです。

優れた津軽弁による詩の数々は、伊奈かっぺいを始めとした多くの人々を魅了したのです。高木恭造が亡くなった昭和62年の翌年(1988年)、伊奈かっぺいと鹿内博(元青森市長)などが先になって、その命日を「津軽弁の日」と決めました。

10月23日の出来事としては、ローマ内戦のフィリッピの戦い(前42年)、大坂冬の陣に向け徳川秀忠が江戸城出発(1614年)、元禄への改元(1688年→元禄元年9月30日)、明治への改元(明治元年9月8日)などがあります。

ちなみに10月23日は「秋分の日(2017年)」・「津軽弁の日」の他に「二十四節気」の「霜降(そうこう・2017年)」・「電信電話記念日」・「ふみの日」・「歩民(府民)の日」・「踏切りの日」・「天ぷらの日」・「モルの日」などに設定されています。

【銭湯の日】「スポーツの後は入浴」が「体育の日」と結びついた

10月10日は以前は「国民の祝日」の「体育の日」であった他、「銭湯の日」でもあります。「スポーツの後は入浴」が「体育の日」と結びついて生まれ、1010(千十→せんとお)の語呂合わせにもなっています。

「銭湯」とは、日本における公衆浴場の一種で、「風呂屋(ふろや)」・「湯屋(ゆや)」などとも言われています。「温泉」や「公営の共同浴場」と共に物価統制を受けて入浴料金が定められた「普通公衆浴場(或いは一般公衆浴場)」というものに分類されます。

これに対して、物価統制を受けない「その他の公衆浴場(或いは特殊杭州浴場)」というものもあり、これには「スーパー銭湯」・「健康ランド」・「サウナ風呂」などが含まれます。また、風俗店の「ソープランド」もここに分類されるのです。

昭和時代の東京オリンピック(1964年10月10日開幕)を契機として、国民のスポーツへの意欲が向上し、健康増進の目的でスポーツをする人が増えました。そして、スポーツ後の銭湯などでの入浴が健康に良いと言うことも知られるようになったのです。

「東京都公衆浴場業生活衛生同業組合(略称:浴場組合)」が平成8年に、東京オリンピック開幕の日を「銭湯の日」として「日本記念日協会」に申請し、登録認定を受けます。

銭湯の歴史は古く、その始まりは日本に仏教が伝来した時(公伝は6世紀半ば)で、お坊さんたちが体を清めるためにお寺の中に設置した「浴堂」という施設です。その後、病気の予防と福を呼ぶための入浴が奨励され、病人・囚人への施浴(浴堂での入浴)を行なわれました。

室町時代になると、京都の街中で銭湯の営業が増えだし、公家や武家などの上流階層は自邸に入浴施設を造ったり、銭湯を借り切ったりして入浴するようになったのです。ただ、この頃の入浴は蒸し風呂タイプが主流で、現在のように湯船に浸かるというものではなかったようです。

江戸時代の銭湯は経営的な制限から男女混浴というのが当たり前で、浴衣のような「湯浴み着」を着て入浴していました。しかし、風紀を乱す行為や場内の暗さに紛れて窃盗事件があったりして、寛政3年(1791年)の「男女入込禁止令」や、天保(1830-1843年)の改革で混浴が禁止となったりもしました。

文政年間(1818-1831年)になって、それまでの薬草を炊いて蒸気を浴びる蒸し風呂タイプから、湯船に浸かる湯浴みタイプへと変わっていき、現在の銭湯のような形になっていきました。

太平洋戦争後、都市人口の増加に伴って銭湯も増加し、昭和40年(1965年)頃には全国に2万軒以上も建てられていました。現在では、昔ながらの所謂「銭湯」というものは少なくなっていますが、「スーパー銭湯」などと営業形態を変えたりして、公衆浴場は存続しています。

10月10日の出来事としては、史上最悪の「グレート・ハリケーン」被害(1780年)、日本銀行の開業(1882年)、清朝で辛亥革命勃発(1911年)、北京の故宮博物院開設(1925年)、米軍による沖縄本島初空襲(1944年)などがあります。

ちなみに10月10日は旧「体育の日」・「銭湯の日」の他に、「まぐろの日」・「缶詰の日」・「冷凍めんの日」・「釣りの日」・「トレーナーの日」・「アイメイトデー」・「目の愛護デー」・「島の日」・「世界精神保健デー」・「魚の日」・「世界メンタルヘルス・デー」・「頭髪の日」・「植物油の日」・「鉄道電車バスの日」などに設定されています。

【ひじきの日】これを食べて長生きという敬老の思いでこの日ができた

9月15日は以前は「国民の祝日」の「敬老の日」であった他、「ひじきの日」でもあります。ひじきを食べて長生きをするという敬老の思いで、「日本ひじき協会」が当時の「敬老の日」に合わせて制定しました。

「ひじき」は、「鹿尾菜」・「羊栖菜」などと書かれる、褐藻類ホンダワラ科ホンダワラ属の海藻の1種です。古くからこれを食べると長生きできると言われていて、北海道・本州・四国・九州・奄美大島・沖縄島・朝鮮半島・中国南部に分布しています。

現在では食用のものの9割方は中国や韓国からの輸入となっていて、国内産のほとんど全ては天然ものです。大体「干(ほし)ひじき」として流通し、水で戻して醤油・砂糖で煮る「五目煮」の他、ひじきご飯・サラダ・酢の物・天ぷらなどとして食べられています。

干ひじきに含まれるカルシウムは骨粗しょう症、食物繊維は高脂血症、カリウムと食物繊維は高血圧へ対抗できるようにすると言われています。また、鉄は免疫力強化、マグネシウムは心臓疾患、ビタミンB1は疲労回復、ビタミンB2は心筋梗塞、マンガンは肝機能、ヨウ素は肥満などに効果があるようです。

ひじきを含む海藻の歴史は古く、縄文時代や弥生時代の遺跡からひじきが食べられていたと思われる遺物が発掘されています。そして、奈良時代には、神様への供え物にしたり、支配階級の食料になっていて、調(当時の税金にあたるもの)として海藻が朝廷に献上されていたという記録が残っています。

平安時代中頃のには、山海の珍味として海藻が天皇への献上品となり、鎌倉時代から室町時代にかけて、海藻料理は高級材料で、美しく洗練されたものとなっていったのでした。

戦国時代になって、海藻は戦場で食べられることが多くなり、熊本城の壁には籠城時の食料としてアラメ(褐藻の一種)が塗り込められていました。一般庶民に海藻が食べられるようになったのは江戸時代で、品川海苔・浅草海苔・伊勢ヒジキ・伊勢アラメ・日高昆布・鳴門ワカメなどの名産品が流通していたのです。

「日本ひじき協会」では、古くからの健康食・ひじきの情報を発信し、国民の健康増進をすることを目的として平成16年度(2004年度)に発足しました。その前身とも言える「三重県ひじき協同組合」が、昭和59年(1984年)に”ひじきをもっと食べて健康に長生きして下さい”との願いから旧「敬老の日」を「ヒジキの日」としたのです。

9月15日の出来事としては、コスタリカなど5ヶ国のスペインからの独立宣言(1821年)、ダーウィンがガラパゴス諸島に到達(1835年)、戊辰戦争で二本松城落城(1868年→慶応4年7月29日)、日本が満州国承認(1932年)などがあります。

ちなみに9月15日は旧「敬老の日」・「ひじきの日」の他に、「老人の日」・「マスカットの日」・「スカウトの日」・「シルバーシートの日」・「国際民主主義デー」・「ひよこの日」・「お菓子の日」・「中華の日」・「惣菜の日」・「レンタルビデオの日」・「いちごの日」・「商工会の日」・「マージャンの日」・「大阪寿司の日」などに設定されています。

【スポーツ中継の日】「前畑がんばれ」という歴史的名放送が発端の日

8月11日は「国民の祝日」の「山の日」である他、「スポーツ中継の日」でもあります。昭和11年(1936年)8月11日、オリンピックの女子水泳で「前畑がんばれ」という歴史的名放送が発端となりました。

1936年(昭和11年)8月1日、ドイツのベルリンで第11回夏季オリンピック競技大会が始まりました。1916年(大正5年)に一度は予定されていたものの、第一次世界大戦の勃発によって中止されていたことへの20年ぶりのリベンジと言えます。

時代はヒトラー総統率いるナチス党の全盛期で、ユダヤ人迫害政策を推進し、反政府活動家に対する人権抑圧を行なう姿勢に対し、大会をボイコットしようする動きを見せる国もありました。この動きに対し、ヒトラーは差別発言を抑え、ナチス・ドイツの政策を一時的に変更して、どうにか開催に漕ぎつけたのです。

本大会では、当時まだ開発途上にあったテレビジョンによる試験中継が行われます。複数のカメラで会場の内外を結んで中継し、かなり本格的なものとなりました。

日本の報道では大阪毎日新聞と大阪朝日新聞の争いが激化し、国際電話取材や飛行機によるフィルム送付を行なった他、実験的にファクシミリ(当時は画像電送機)まで使用されたのです。

この時の生の報道は、NHKラジオによる中継でした。その放送担当者は、相撲実況でも評判になった山本照と、スポーツアナウンサーになりたくてNHKに入った河西三省(かさいさんせい)の二人です。

和歌山県出身の前畑秀子は、奈良県では吉野川と呼ばれる一級河川・紀ノ川で泳ぎをマスターし、尋常小学校5年生の時に女子50m平泳ぎで学童新記録を出すという、水泳の申し子のような存在でした。高等小学校2年生の時には、汎太平洋オリンピックの100m平泳ぎで優勝、200m平泳ぎで準優勝しています。

昭和7年(1932年)、ドイツの全大会となるロサンゼルス・オリンピックで前畑は、200m平泳ぎでオーストラリアのクレア・デニスにわずか0.1秒という僅差で銀メダルに甘んじています。

ロス五輪の前年に両親共に亡くしていた前畑は引退も考えていましたが、祝賀会に来ていた東京市長・永田秀次郎の”金メダルを取らず無念”との思いの丈を聞かされ、現役続行に考えを改めるのでした。

昭和8年(1933年)9月30日、200m平泳ぎの世界新記録を出した前畑は、1日に2万メートルも泳ぐという猛練習のかいもあって、ついに2度目のオリンピック出場を決めます。

昭和11年(1936年)8月11日、ベルリン・オリンピックの女子200m平泳ぎ決勝の日です。午前0時のラジオ中継開始予定時刻になると、河西アナはまずラジオの”スイッチを切らないでください”と伝えました。

レースは前畑とドイツのマルタ・ゲネンゲルとの首位を争う凄絶なデッドヒートとなり、河西アナの実況は白熱していきます。”前畑、前畑がんばれ!がんばれ!…”と、”前畑”を16回、”がんばれ”を13回も叫び、3位以下の選手のことがまったく伝えられない変な実況となってしまったのでした。

8月11日の出来事としては、マヤ暦(長期暦)の初日(前3114年)、豊臣秀吉の四国平定完了(1585年→天正13年7月16日)、イギリスのアスコット競馬場初レース(1711年)、ドイツのワイマール憲章制定(1919年)などがあります。

ちなみに8月11日は「山の日」・「スポーツ中継の日」の他に、「がんばれの日」・「麺の日」・「きのこの山の日」などに設定されています。

【海の記念日】近代日本を指導した天皇の航海を記念した日

7月20日は以前は「国民の祝日」の「海の日」であった他、その由来である「海の記念日」でもあります。明治9年(1876年)7月20日、近代日本を指導した明治天皇が汽船「明治丸」での航海から帰着しました。

”海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う”として制定された「海の日」は、現在は7月の第3月曜日となっていますが、元々は「海の記念日」に由来して7月20日でした。

第122代天皇・明治は、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)に京都で誕生しました。黒船(アメリカのペリーが率いる海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻)が来航し、幕末が始まる前年のことで、この時すでに黒船→海というように、海との因縁があったようです。

慶応2年12月25日(1867年1月30日)、先代の孝明天皇が崩御すると、翌年1月9日(1867年2月13日)に14才で皇位に就きます。そして、その年の10月15日(1867年11月10日)に徳川慶喜が大政奉還し、12月9日(1868年1月3日)に新政府が樹立されます。

慶応4年1月3日(1868年1月27日)、慶喜の旧幕府軍と新政府軍が京都南郊で衝突し、「鳥羽・伏見の戦い」が勃発します。8日になって慶喜は、戦いに敗れたと知った開陽丸(江戸幕府の軍艦)艦長・榎本武揚を置いて、その艦で江戸へと逃げ帰ってしましました。

明治元年3月14日(1868年4月6日)、「五箇条の御誓文」を発布して新政府の基本方針を表明されます。10月13日に初めて明治天皇は江戸(この日東京に改称)に行幸し、一旦は京都に還幸するものの、翌年に再び行幸してからは崩御するまで東京に住み続けるのです。

明治天皇の地方巡幸は、明治5年(大阪・中国・西国)・明治9年(東北)・明治11年(北陸道・東海道)・明治13年(山梨県・三重県・京都府)・明治18年(山陽道)の5回行なわれています。

明治9年(1876年)6月2日から行われた東北巡幸では、それまでの軍艦ではなく灯台巡視の汽船「明治丸」が使われました。巡幸を終えた明治天皇を乗せた「明治丸」が横浜港に帰着したのが、7月20日だったのです。

昭和16年(1941年)、大阪商船(海運会社)や海運自治連盟に深く関わってきた時の逓信大臣・村田省蔵が、この「7月20日」を「海の記念日」とすることを提唱し、制定されることとなったのでした。

ちなみに、「明治丸」は東京商船学校(現東京海洋学校)の練習船として活躍した後、東京海洋大学越中島キャンパスに保存されています。

7月20日の出来事としては、ティムール朝がオスマン朝に勝利(アンカラの戦い・1402年)、井伊直孝らによる大奥の不用建物の取り壊し(1651年→慶安4年6月3日)、コロンビアの独立(1810年)、「国民の祝日に関する法律」の公布・施行(1948年)などがあります。

ちなみに7月20日は旧「海の日」・「海の記念日」の他に、「ハンバーガーの日」・「Tシャツの日」・「修学旅行の日」・「ファクシミリの日」・「勤労青少年の日」・「頭髪の日」・「鉄道電車バスの日」・「マイカーチェックデー」・「ワインの日」などに設定されています。