【海の記念日】近代日本を指導した天皇の航海を記念した日

7月20日は以前は「国民の祝日」の「海の日」であった他、その由来である「海の記念日」でもあります。明治9年(1876年)7月20日、近代日本を指導した明治天皇が汽船「明治丸」での航海から帰着しました。

”海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う”として制定された「海の日」は、現在は7月の第3月曜日となっていますが、元々は「海の記念日」に由来して7月20日でした。

第122代天皇・明治は、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)に京都で誕生しました。黒船(アメリカのペリーが率いる海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻)が来航し、幕末が始まる前年のことで、この時すでに黒船→海というように、海との因縁があったようです。

慶応2年12月25日(1867年1月30日)、先代の孝明天皇が崩御すると、翌年1月9日(1867年2月13日)に14才で皇位に就きます。そして、その年の10月15日(1867年11月10日)に徳川慶喜が大政奉還し、12月9日(1868年1月3日)に新政府が樹立されます。

慶応4年1月3日(1868年1月27日)、慶喜の旧幕府軍と新政府軍が京都南郊で衝突し、「鳥羽・伏見の戦い」が勃発します。8日になって慶喜は、戦いに敗れたと知った開陽丸(江戸幕府の軍艦)艦長・榎本武揚を置いて、その艦で江戸へと逃げ帰ってしましました。

明治元年3月14日(1868年4月6日)、「五箇条の御誓文」を発布して新政府の基本方針を表明されます。10月13日に初めて明治天皇は江戸(この日東京に改称)に行幸し、一旦は京都に還幸するものの、翌年に再び行幸してからは崩御するまで東京に住み続けるのです。

明治天皇の地方巡幸は、明治5年(大阪・中国・西国)・明治9年(東北)・明治11年(北陸道・東海道)・明治13年(山梨県・三重県・京都府)・明治18年(山陽道)の5回行なわれています。

明治9年(1876年)6月2日から行われた東北巡幸では、それまでの軍艦ではなく灯台巡視の汽船「明治丸」が使われました。巡幸を終えた明治天皇を乗せた「明治丸」が横浜港に帰着したのが、7月20日だったのです。

昭和16年(1941年)、大阪商船(海運会社)や海運自治連盟に深く関わってきた時の逓信大臣・村田省蔵が、この「7月20日」を「海の記念日」とすることを提唱し、制定されることとなったのでした。

ちなみに、「明治丸」は東京商船学校(現東京海洋学校)の練習船として活躍した後、東京海洋大学越中島キャンパスに保存されています。

7月20日の出来事としては、ティムール朝がオスマン朝に勝利(アンカラの戦い・1402年)、井伊直孝らによる大奥の不用建物の取り壊し(1651年→慶安4年6月3日)、コロンビアの独立(1810年)、「国民の祝日に関する法律」の公布・施行(1948年)などがあります。

ちなみに7月20日は旧「海の日」・「海の記念日」の他に、「ハンバーガーの日」・「Tシャツの日」・「修学旅行の日」・「ファクシミリの日」・「勤労青少年の日」・「頭髪の日」・「鉄道電車バスの日」・「マイカーチェックデー」・「ワインの日」などに設定されています。