【銭湯の日】「スポーツの後は入浴」が「体育の日」と結びついた

10月10日は以前は「国民の祝日」の「体育の日」であった他、「銭湯の日」でもあります。「スポーツの後は入浴」が「体育の日」と結びついて生まれ、1010(千十→せんとお)の語呂合わせにもなっています。

「銭湯」とは、日本における公衆浴場の一種で、「風呂屋(ふろや)」・「湯屋(ゆや)」などとも言われています。「温泉」や「公営の共同浴場」と共に物価統制を受けて入浴料金が定められた「普通公衆浴場(或いは一般公衆浴場)」というものに分類されます。

これに対して、物価統制を受けない「その他の公衆浴場(或いは特殊杭州浴場)」というものもあり、これには「スーパー銭湯」・「健康ランド」・「サウナ風呂」などが含まれます。また、風俗店の「ソープランド」もここに分類されるのです。

昭和時代の東京オリンピック(1964年10月10日開幕)を契機として、国民のスポーツへの意欲が向上し、健康増進の目的でスポーツをする人が増えました。そして、スポーツ後の銭湯などでの入浴が健康に良いと言うことも知られるようになったのです。

「東京都公衆浴場業生活衛生同業組合(略称:浴場組合)」が平成8年に、東京オリンピック開幕の日を「銭湯の日」として「日本記念日協会」に申請し、登録認定を受けます。

銭湯の歴史は古く、その始まりは日本に仏教が伝来した時(公伝は6世紀半ば)で、お坊さんたちが体を清めるためにお寺の中に設置した「浴堂」という施設です。その後、病気の予防と福を呼ぶための入浴が奨励され、病人・囚人への施浴(浴堂での入浴)を行なわれました。

室町時代になると、京都の街中で銭湯の営業が増えだし、公家や武家などの上流階層は自邸に入浴施設を造ったり、銭湯を借り切ったりして入浴するようになったのです。ただ、この頃の入浴は蒸し風呂タイプが主流で、現在のように湯船に浸かるというものではなかったようです。

江戸時代の銭湯は経営的な制限から男女混浴というのが当たり前で、浴衣のような「湯浴み着」を着て入浴していました。しかし、風紀を乱す行為や場内の暗さに紛れて窃盗事件があったりして、寛政3年(1791年)の「男女入込禁止令」や、天保(1830-1843年)の改革で混浴が禁止となったりもしました。

文政年間(1818-1831年)になって、それまでの薬草を炊いて蒸気を浴びる蒸し風呂タイプから、湯船に浸かる湯浴みタイプへと変わっていき、現在の銭湯のような形になっていきました。

太平洋戦争後、都市人口の増加に伴って銭湯も増加し、昭和40年(1965年)頃には全国に2万軒以上も建てられていました。現在では、昔ながらの所謂「銭湯」というものは少なくなっていますが、「スーパー銭湯」などと営業形態を変えたりして、公衆浴場は存続しています。

10月10日の出来事としては、史上最悪の「グレート・ハリケーン」被害(1780年)、日本銀行の開業(1882年)、清朝で辛亥革命勃発(1911年)、北京の故宮博物院開設(1925年)、米軍による沖縄本島初空襲(1944年)などがあります。

ちなみに10月10日は旧「体育の日」・「銭湯の日」の他に、「まぐろの日」・「缶詰の日」・「冷凍めんの日」・「釣りの日」・「トレーナーの日」・「アイメイトデー」・「目の愛護デー」・「島の日」・「世界精神保健デー」・「魚の日」・「世界メンタルヘルス・デー」・「頭髪の日」・「植物油の日」・「鉄道電車バスの日」などに設定されています。