【大岡越前の日】この日、町奉行に就任して「越前守」となった!

2月3日は特別な暦日である「雑節(ざっせつ)」の「節分(せつぶん/せちぶん・2017年)」であり、「大岡越前の日」でもあります。享保(きょうほう)2年2月3日(1717年3月15日)、大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)が南町奉行に就任したのです。

時代劇のヒーロー的存在として、水戸黄門や遠山の金さんと並んで有名な大岡越前は、江戸時代中期の幕臣で大名でした。

延宝(えんぽう)5年(1677年)、千七百石の旗本である大岡忠吉(ただよし)家第3代当主の大岡忠高(ただたか)の四男として江戸で誕生します。そして、同族の大岡忠世(ただよ)家第2代当主・大岡忠真(ただざね)の娘と婚約し、養子となります。

貞享(じょうきょう)3年(1686年)5代将軍の徳川綱吉に初御目見えするものの、元禄(げんろく)9年(1696年)には従弟の大岡忠英(ただふさ)の事件に連座して、家の門扉と窓を閉ざし昼夜の出入りを禁じられる閉門処置となってしまいます。

翌年には閉門処置を赦され、元禄13年(1700年)に養父の病死を受けて大岡忠世家第3代当主となります。

幕府での役職は、元禄15年(1702年)に書院番(しょいんばん)、宝永(ほうえい)元年(1704年)に徒頭(かちがしら)、同4年に使番(つかいばん)と歴任します。そして、宝永5年ついにその後の名奉行にも通じる役職で、旗本・御家人の監視や諸役人の勤怠等政務全般を監察する目付(めつけ)に就任するのです。

将軍が6代家宣(いえのぶ)に替わり、正徳(しょうとく)2年1月11日(1712年2月17日)に伊勢神宮の守護や鳥羽港の警備などを行なう山田(やまだ/ようだ)奉行に就任し、初めて”奉行”の呼び名を得ます。この役職は、享保元年2月11日(1716年3月4日)まで続けられました。

忠相が山田奉行であった頃、奉行の支配する幕領と御三家の紀州徳川家領の間にはしばしば係争がおこっていました。山田(現・伊勢市)と松坂(現・松阪市)の境界訴訟の際、忠相は前例に左右されることなく、公正な裁きを行なったと言う後代の逸話があります。

忠相は山田奉行に就任した年に位階(国家制度に基づく個人の序列)である従五位下(じゅごいげ)能登守(のとのかみ)に叙任し、近代で言えば貴族に相当する地位の最下層に達しました。越前守として知られる忠相ですが、この時はまだ能登守だったのです。

7代将軍・家継(いえつぐ)の時代、山田奉行の後は普請奉行となって、江戸の土木工事や屋敷割を指揮します。そして、享保元年8月に紀州藩の吉宗(よしむね)が8代将軍に就任すると、享保の改革という幕政改革が始ります。

享保2年2月3日、吉宗は紀州藩時代に目を付けていたと思われる忠相を、江戸の行政と司法を担当する江戸町奉行にします。忠相が町奉行となった頃、江戸町奉行所には南町・北町・中町の3ヶ所設置されていました。

忠相が南町、北町は中山時春、中町が坪内定鑑(さだかね)でしたが、中町奉行の定鑑の名乗りが能登守と忠相と同じであったため、この時に忠相は名乗りを越前守と改めたのです。

2月3日の出来事としては、慶長地震(1605年→慶長9年12月16日)、アメリカの独立(1783年)、ジョン万次郎の帰国(1851年→嘉永4年1月3日)、ベトナム共産党の創設(1930年)、札幌オリンピックの開幕(1972年)などがあります。

ちなみに2月3日は「節分(2017年)」・「大岡越前の日」の他に、「のり巻きの日」・「大豆の日」などに設定されています。